【論究ジュリスト24号・第1特集】現行民事訴訟法が施行されて20年。民事訴訟実務には様々な工夫が凝らされたものの,改正当時の熱気は感じられなくなりつつあります。第1特集では,改めて改正の意義を振り返り,現在の課題について,次世代の実務家・研究者の方々にご寄稿いただきました。 pic.twitter.com/Cs80eZyWDQ
— 有斐閣雑誌編集部 (@Jurist_Hogaku) 2018年2月13日
現行民事訴訟法施行20周年
現行民事訴訟法施行20周年を記念して、論究ジュリスト24号に特集が組まれており、武藤貴明判事が論文を寄せている1と聞いた。
武藤判事はうちの支部に赴任されていたことがあり、期日が終わると矢のような速さで争点整理案が送られて来たり、当事者双方ぐうの音も出ないような判決を書かれたりということで、僭越ながら、当時より大変優れたご活躍をされていた印象があった。
そこで、早速取り寄せて拝読した。
「充実した審理の阻害要因」
本論文では、弁護士に対して次のように手厳しいご指摘がある2。
また、近年、若手弁護士の増加や代理人と依頼者との関係の変化等を背景に、十分なスキルを有しない代理人が、準備不足のまま訴えを提起し、あるいは争点整理手続に臨んだり、依頼者の意向のままに訴訟活動を展開し、争点整理にも非協力的な態度を示すといった傾向が強まっているようにも感じられる。こうしたことも充実した審理の阻害要因になっていることは否定できない。
誠にお恥ずかしいが、まったくそのとおりである。
争点整理手続で当事者に充実した受け答えをしてほしい、といった問題意識は、裁判所サイドから度々聞こえてくる。
しかし、そうもいかない。
いや、そうもいかなくなってきた、ということなのだが、充実した審理の阻害要因という点については思い当たることがあるので、弁護士側として考えられる実情を三点ほど挙げて検討することにしたい。
カジュアルな受任スタイル
第一に、弁護士が面談もせずに各地の依頼者を漁るスタイルが流行するようになったということがある。
このスタイルでは、ほぼ必然的に、弁護士が依頼者の事情を十分に把握できないまま事件処理をすることにつながる。事情を知らないまま弁護士が期日に出頭してきても「分かりません」としか回答しようがないし、そもそも本当に大丈夫か、ということになる。
これは、弁護士の宣伝広告の自由化及び広域化がもたらした現象である。もちろん、そのようなスタイルの法律事務所が縮小するという方向性により、この問題が多少改善することはあるのかもしれない。
ただ、そうでないとしても、弁護士と依頼者がコミュニケーションを取るための手段は多様に発達しているのだから、何が何でも事務所に来てもらって面談を要する時代でもないだろう。そこで、技術的な手段を活用して、このような問題を解消するという方向性はあるのではないか、とは思っている3。
後ろから弾が飛んでくる
第二に、弁護士の依頼者への従属性が強まったということがある4。
本来、委任というのはそのような関係ではないと思う5。しかし、弁護士は自分の命令どおりに動く存在だとしか思ってない依頼者は多いし、気に入らなければ解任してやる、次第によっては懲戒請求してやる、と思っている依頼者も存在する。
更にいえば、顧客獲得競争が厳しくなってしまったので、依頼者の無茶な意向にも益々付き合わざるを得なくなっているし、また、懲戒手続の存在がポピュラーになってしまったので6、濫用的な懲戒請求にも今まで以上に警戒せざるを得なくなっている。
こうして、弁護士が依頼者に対してナーバスになる度合いはより一層強まるようになった。
そうすると、争点整理の局面でも、うかつに依頼者の意向と違うことを口走って後で問題となることは避けたい。一般的に、弁護士は前から飛んでくる弾はそれほど恐れないが、後ろから飛んでくる弾には強い恐怖を感じる性質がある。
そんな状況では、とてもではないが充実した議論どころではないのである。
揚げ足取りに終始する
第三に、揚げ足を取る弁護士が増えたということがある。
もちろん、昔からそのような輩はいたのかもしれないが、気になるほどではなかったと思う。特に、代理人の態度としていかがなものかと考えるのは、交渉段階で出た話を、訴訟において揚げ足取りのために主張するようなことである (例:「金を払うといって一旦は和解の提案をしてきたんだから責任を認めたということだ!」)。
勝たないと死ぬ病でも蔓延しているのだろうか。実は、そのような主張を行う弁護士は大変増えているため、率直に申し上げて我々も困惑している。
争点整理の局面でも同じことで、そういう揚げ足取りに終始する弁護士が増えてきたと思えば、警戒を緩めるわけにはいかない。だから、自由闊達な議論なんかできるわけがないのである。まさに、謝ったら死ぬ病である。
こうして、議論の筋道を引き戻すのが難しくなると、審理が迷走するのであろう7。そうなるとすれば、その責任は概ね弁護士の側にある。
最強の弁論術
かくして、日々、全国津々浦々の法廷を駆け巡る法廷弁護士たちは、ただ一つの最強の弁論術を編み出すに至る。
すなわち、
次回期日に主張します!
というアレである。
いつもヌケヌケとそのような対応をしやがってこの○○8な代理人が、と思われることもあるかもしれない。
しかし、これは、依頼者、相手方、裁判所9といった、訴訟を巡る様々な主体との関係性を熟慮した末に止むなく発する一言なのである。
もちろん、単純に調査不足の場合があることは、否定しない。それではまったくダメなので、準備はちゃんとしよう。
民事訴訟の今後
こんな議論をしているようでは、さすがに身も蓋もないので、これからの民事訴訟の展望を論じることにしたい。
武藤判事の論文は、次のように結んでいる10。
もとより、民事訴訟の改善は、裁判所のみでできることではなく、弁護士や弁護士会の協力も不可欠である。これからの10年を「民事訴訟充実の10年」にしていくため、我々実務家には、一致協力して、現行民訴法の理念に立ち返り、利用者のための民事訴訟を実現していくことが求められているといえよう。
ぐうの音も出ないとはまさにこういうことであり、まったくそのとおりである。
裁判所も努力しているところであるから、メインユーザーである弁護士も、様々な努力をしていかなければならないのであろう。
弁護士の苦悩
それでは、今の時代を生きる弁護士としては、いかなる努力ができるだろうか。
第一義には、目の前の事件に真摯に取り組めということではある。
しかし、弁護士の生存環境が厳しくなればなるほど、丹念に依頼者から事情を聞き取り、事実関係や法的問題を調査し、隙のない書面を書き上げ、尋問のための入念な準備をするといった、非定型的で多大な時間と手間が掛かる訴訟事件の処理に経営資源を振り向けることは、益々困難になる。
その行き着く先は、「難しい依頼者は受けない」「少額の事件は受けない」「勝てない事件は受けない」「複雑な事件は受けない」「回収困難な事件は受けない」ということになるだろうし、それに止まらず「訴訟は控える」「訴訟外業務に注力する」ということもあり得よう。
果たして、そのような傾向が著しくなった場合に、司法は役割を維持することができるのであろうか。
司法の役割について「裁判所を中心とする法原理のフォーラム」11とする捉え方がある。しかし、いくら裁判所が民事訴訟の充実のために努力をしても、弁護士が持ち込む事件の傾向が限られるとか、弁護士の訴訟活動の質がアレだということでは、フォーラムの土台はぐらついてしまうだろう。
本来は、弁護士も法廷における職人として訴訟技術を磨くべきであり、そのための研鑚が活発に行われることが望ましい。しかし、残念ながら、現在の弁護士業界で主要な関心が向いている点は、そこではない。どちらかというと、技術性とか専門性はそっちのけでどう売り込むかみたいな話の方が多くなってしまった。一連の改革がもたらした悲劇である。
まとめ
以上、民事訴訟の改善に向けては裁判所も様々な取り組みをしているところであり、そのような活動に対しては敬意を表したい。一方で、民事訴訟を積極的に活用したいと願いつつ、実際なかなか使い切れていない場面もある弁護士の立場としては、いささか苦悩もある。
とはいえ、裁判所を中心とする法原理のフォーラムは、究極的には個人の権利及び自由を維持する上で必要不可欠な存在であるから、それがより一層質的に豊かで充実したものとなることを一法曹として心から願っている。
さて、そろそろ起案にとりかかろう。
武藤貴明「裁判官からみた審理の充実と促進」論究ジュリスト24号14頁以下(2018年) ↩
前掲17頁 ↩
民事訴訟手続においても、既にテレビ会議システムを利用する等の取り組みは一部でなされているが、やっと書面の電子化の動きも具体化してきたというような報道も聞こえてきている。そのような動向の行き着く先は、おそらく司法の一極集中化ではないかという懸念も感じているところではあるが、今後の動向を注視したいと考えている。 ↩
余談となるが、司法修習生は、当事者本人が同席するか否かで弁護士の振る舞いに変化があるか観察すると良い。当事者本人の前でハッスルする弁護士は少なくないし、度を超していることもある。当職は、そのようなスタイルは好きではない。裁判所は、法原理に基づいて問題を解決する場所であるから、そこでの議論は理性的であるべきではないかと思う(もちろん、そのような姿勢であるから依頼者の受けが悪いと自覚している。)。 ↩
我妻栄『債権各論 中巻二』652頁(岩波書店、1962年)から以下引用。「委任は、他人の労務を利用する契約の一種であって、一定の事務を処理するための統一的な労務を目的とすることを特色とする。統一的な事務を処理するためには、多かれ少なかれ、自分の意思と能力によって裁量する余地を必要とし、従って、その労務は、いわゆる知能的な高級労務であることを常とする。見方を変えれば、委任は、他人の特殊な経験・知識・才能などを利用する制度なのである。」 ↩
無論、懲戒手続の適正な発動は必要である。しかし、テレビで不当な懲戒請求を扇動して濫用的な懲戒請求が多数生じるようになったきっかけを作った人に関しては、二度と弁護士の肩書きを用いて活動すべきではないという程度には考えている。 ↩
もちろん、優れた裁判官は、そうなる前に箸にも棒にも掛からない主張はきっちりシャットアウトしている。 ↩
適当と思われる二文字を各自補充されたい。 ↩
大坪和敏「弁護士からみた審理の充実と促進」論究ジュリスト24号25頁(2018年)より以下引用。「自由な発言が出来ないのは、和解に関し、和解を希望する事件であっても、裁判官に不利な印象を与えることを懸念して当事者から裁判所に和解の希望を申し入れることを躊躇する傾向があるのと同様に、弁論準備手続における自由な発言で、裁判所に不利な心証を取られるのではないかという懸念があるためと考えられる。」 ↩
武藤・前掲19頁 ↩
第154回国会参議院憲法調査会における佐藤幸治参考人の基調発言より。 ↩