間違いを 許してくれぬ ソクラテス

法科大学院の時代になって法律の講義方法にも変化が見られるようになり、いわゆるソクラテスメソッドが実施されることも一般的になった。

私はそのスタイルの講義を大学では受けなかったが、佐藤幸治先生が「ハーバードのロースクールでは~(以下略)」みたいな話を講義でされていた記憶はあるので、司法制度改革審議会でもアメリカンスタイルなアツい講義を実践したいといった理想が議論され、今のようになったのだと思う。

ところが、これがあまり良い評判が聞こえてこない1。具体的にいえば、単なるクイズをやっているとか、答えられないと怒られるとかいうような話である。

さすがにこれではソクラテスも浮かばれないんじゃないか…ということで、若干思うところを述べることにしたい。

ソクラテスの問答法

ソクラテスに関することだからその研究をしてきた人に尋ねたかったのだが、残念なことに既に天に帰っており叶わなかった。ただ、ソクラテスの問答法に関しては、次のようなものだというのである2

(1)答え手である対話者(A)が命題Pを主張する。Pは、ソクラテスが討論の主題として選んだ倫理的なテーマに関するAの主張である。ソクラテスはPを検討の主題とする(Pを虚偽であると見なし、反駁の標的とする)。

(2)ソクラテスはAに幾つかの命題Q、R、Sを提示し(提示される命題は、単独であることもあり、複数の命題の連鎖であることもある)、これらを承認するかどうかを問う。この場合、ソクラテスはQ、R、Sを出発点(土台)として議論を展開するのであって、Q、R、Sを基礎付けようとして議論するのではない。これらのQ、R、Sなる命題は、けして特殊専門的な知識ではなく、むしろ大抵はあまりにも自明的なものなので、もし答え手がこれらを否定すれば、かれは非理性的か非合理的であると見なされることを免れえないような、そういう種類の命題である。そこで、答え手Aはこれらを承認する。

(3)すると、命題の結合体「Q・R・S」は「非P」を導出するとソクラテスは論証し、Aもそれには同意せざるを得ない。

(4)そこで、非Pは真であるから、Pは偽である、とソクラテスが主張し、Aは反駁される。

ところで、こういった問答法は、法律実務家はどこかで自然と経験しているように思う。

二つほど例を挙げてみる。

口述試験

旧司法試験には口述試験が存在した。今では、司法試験の口述試験は実施されなくなったが、司法試験予備試験には口述試験がある。これは、予備試験が、法科大学院修了者と同等の学識等を判定するための試験だからである3

要するに、法科大学院では双方向的・多方向的な教育を実施するので修了者は口頭での対応能力を備えている建前であるが4、そのような能力が身に着いているか不明な予備試験受験者については依然テストを要するというのである。

さて、口述試験では試験官の質問に受験生が答えていくが、知っていることを誘導に乗ってホイホイと答えていると、答えに窮する質問が出されて受験生がドツボる、という問われ方がされることがあった。

この種の質問の仕方を、当時の受験生は「泥船が出る」などと呼んでいた。乗っかったままだと沈んでしまうから「泥船」である。なお、何とかしようとあがいていると「助け船」が出ることもあったりした。

遥か昔、私が旧司法試験の口述試験を受験した当時の受験指導としては「誘導には素直に乗る」「余計なことは答えない」「泥船が出ても黙りこまない」「ムキになって議論を始めない」等のアドバイスを先輩方から受けた(その他「六法は勝手に見ない」などもあった)。しかし、そのような個々のアドバイスは、どのような意味を持つのか正直言って良く分からなかった。

結局、良く分からないまま最後まで受け切ったが、今にしてみると、あの試験は、泥船に乗って沈みかけた受験生の反応を見ることにポイントがあったように思える。

すなわち、上記にて引用したソクラテスの問答法でいえば、受験生は命題Pを答えさせられた後に命題Q、R、Sの回答を誘導され、最後に試験官から、「あなたの答えを前提にすると非Pになるがそれで良いのか?」と聞かれるわけである。「泥船」といわれるものの正体はこれだったのである。そこで別の船に乗り換えるか、泥船を力技で漕ぎ切るか、はたまた船と共に沈むかということなのであるが、単なる法律クイズに正確に答えられるかどうかという点にとどまらず、法律家に求められる問答の能力をそのようにして見ていたのではないかと思う。

反対尋問

反対尋問では、誘導尋問ができる5

一方、主尋問では誘導できないのが原則である6。証言をコントロールしてはいけないからである。反対尋問で誘導してよいのは、主尋問で現れた事項を聞く分には弊害が少ないというようなことが言われる。

ちなみに、訴訟法の教科書には「沈黙が最大の反対尋問」なんていう指摘があるくらいであり7、無駄な質問をするのは大変良くない。

さて、反対尋問の目標は、証言に信用性がないことを示すことである。

もちろん、テレビドラマよろしく「私、ウソついてました!」と法廷で白状し始める人もいないわけではないが、そういうことは滅多にない。そこで、反対尋問では誘導ができることを活用して、証言の矛盾を導く手法が使われる。

何をするかというと、ひたすら誘導するのである8。私は、そのような技術を2016年に札幌で行われた法廷技術研修の際に教わったのであるが、より具体的には「必ず取れる」「意味がある」証言を誘導しろということだった。証人が答えたことを用いて矛盾を導きたいのであるから、「必ず取れる」というのは証人が認めざるを得ない事実ということであるし、「意味がある」というのは最終的に証言の矛盾を導き得る事実ということになろう。

このような反対尋問の技法について、上記にて引用したソクラテスの問答法の論理構造と比較してみると、弾劾すべき証人をA、その証言内容をP、弁護人が反対尋問で誘導してAに認めさせる事実をQ、R、Sとすれば、相手が認めた事実を前提に矛盾を導く道筋において論理構造が共通している。もちろん、ソクラテスはそんな単純な理解を許すような人ではないのだろうが、2400年以上の時を経ても反駁的対話の手法自体は法廷技術として残り続けていることに驚くのである。

教育的効果

法科大学院でも司法研修所でも法廷技術研修でもどこでも構わないのだが、問答法の論理構造を踏まえた上で訓練をすることは、大変良いことであると思う。

ところが、法科大学院でのソクラテスメソッドのやり方をめぐっては、既に指摘したようにかなり変な話が聞こえてきていたので、残念に思っていた。

その原因は、学生の法律知識や教員の技量の点を除くと、ソクラテスの問答法の論理構造が教え手と学び手の間で共通に認識されないまま受け答えがされてしまっていることに帰着するのではないだろうか。

だから、ソクラテスメソッドと称して、単なる一問一答に終始したり、間違った学生を吊し上げたりすることになってしまうのだという気がしている。逆に、教育的効果が得られているという意見も一部には見られるのであるが、それは問答の論理構造を踏まえての受け答えが成り立つことで、学生に自らの理解の足りないところを気付かせるのに成功しているからではないだろうか。

なお、ソクラテスの問答法によるならば、対話の相手方である学生が間違ったことを言うのは元々想定されている事態だと思われるので、学生にしてみればどんどん突っ込まれる体験をしてみたら良いと思う。もちろん、それは、平常点の評価などにおいて不利益を与えられないということが前提である。

まとめ

色々と述べたが、私の場合は法学部に入学してからの視野狭窄ぶりが結構ひどくて、ソクラテスのソの字も知らずに弁護士になっている。それを学ぶ必要が生じたのは偶然の事情によるものであった。だから、そもそも、この問題について適切にものを言えるわけでもない。

とはいえ、問答の作法を身につけること自体は、法律家に必須の素養である。特に、反対尋問の技術と精神がなぜ有意義なのかということに関しては、平野龍一が次のように述べているのが参考になる9

しかし反対尋問の精神は、誠実とみえる報道も権威があるかのような意見も、多かれ少なかれ偏見を伴ったものなのであり、また利害がからむと、この人がと思うような人でも、嘘を言いがちだということである。誰か、「りっぱな人」の報道や意見にたよるよりも、偏見や利害を持った多くの人が、ことばと論理によってその偏見をぶっつけあい、利害を明らかにしあった方が、正しい事実、妥当な意見に到達できる、というのが、反対尋問のあるいは交互尋問制度の根底にある考え方である。それはまさにデモクラシーの思想にほかならない。

ここで、「平野龍一が言うんだから間違いない」と考えては矛盾するのでその点は措くとしても、法律家はことばと論理を武器として活動する仕事なのであるから、日々の研鑽を通じてことばと論理に対する信頼を深めていくことは大切である。そうはいっても、ついつい、荒っぽいことばを使ったり雑な論理を振り回すことをしてしまいがちであるから、反省している。

また、古今東西、法学の学び方には様々なやり方もあるが、工夫を凝らして少しでも良い方法を探求するということは、実務家か研究者かを問わず重要な務めである。そうでなければ、法に関する技術を後世に残すことはできなくなってしまうからである。

そこで、法科大学院でも、より一層充実した双方向の問答の訓練10がなされることを通じて、ことばと論理に対する信頼がより深まっていくことを期待をしたいとは思っている。


  1. 具体的にどのような意見が噴出しているかということについては、次のツイートのまとめ(「謎の方法ソクラテスメソッド」https://togetter.com/li/1218984)をご覧いただきたい。この中でも最もひどいのは、じゃこにゃー(@Jakotsunya)氏による「なお、1番辛かったソクラテスメソッドは刑法にて、半笑いでじゃこにゃくんの答えであっている人って多数決とられたことですね。雰囲気が間違っている前提だから、誰も手をあげなくて、ほれ見てみろみたいな感じだったのが1番こたえた。卒業の単位は全て取り切っているから、翌週から出なかった。」であろう。そのような遣り取りの中にはおよそ対話の精神というものが存在しない。 

  2. 岩田靖夫『増補 ソクラテス』102頁(筑摩書房、2014年) 

  3. 司法試験法5条1項 

  4. 参考:法務省ウェブサイト「法曹養成検討会 新司法試験の在り方について(意見の整理)」http://www.moj.go.jp/jinji/shihoushiken/shiken_arikata_030324-4.html 

  5. 刑事訴訟規則199条の4第3項 

  6. 刑事訴訟規則199条の3第3項柱書 

  7. 田宮裕『刑事訴訟法』〔新版〕319頁(有斐閣、1992年) 

  8. 日本弁護士連合会編『法廷弁護技術』〔第2版〕135頁、140頁(日本評論社、2009年) 

  9. フランシス・ウェルマン(梅田昌志郎訳)『反対尋問』721頁〔平野龍一による解説部分〕(筑摩書房、2019年) 

  10. 結局一方的な尋問になってしまうということや、平常点を付けると教師の主観やジェンダーや人種に関わる偏見が影響するおそれがあるといった理由を挙げて、「だから、ソクラティックメソッドが双方向的授業でいいなんて誤解したうえで、日本のロースクールでやろうとしたのは、まったくこのメソッドがわかってないんですよね。」とする指摘もある。井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』150頁(毎日新聞出版、2015年) 

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