道弁連大会での議論
平成27年の北海道弁護士会連合会定期大会では、「集団的自衛権行使等を容認する閣議決定の撤回を求めるとともに、同閣議決定に基づく関連諸法令の改正及び制定に反対する決議」(長い!)に関する議論がなされ、結果的には賛成多数で可決されました。
ところで、この議案に対しては今年も会場で反対意見と賛成意見の応酬がありました。道弁連大会で決議案への反対意見が出ることはそう多くはありません。但し、時間の制約もあって十分に議論できたともいえないようには感じます。
そこで、この決議のどのような点に意見の対立があり、どこが問題なのか考えてみたいと思います。
対立点の比較
反対意見を述べた会員の示した争点が4つありましたので、その争点を踏まえて比較してみると、次のような意見の対立があることが分かります(なお、下図の賛成意見の方の見解は、大会で実際にこのとおりの主張がなされたものではなく、あくまで私見です。)。
反対意見 | 賛成意見 |
そもそも、日本国憲法の解釈として、集団的自衛権を容認することは可能である。 | |
安全保障に関する法律は、高度な政治性故に司法審査の範囲外であり、弁護士会が意見を述べることは不適当である。 | 砂川事件最高裁判決も、法令が一見明白に違憲の場合は違憲審査の余地を残しているから意見を述べる余地はある。 |
弁護士会は強制加入団体であるところ、その団体としての性質上、政治的意見の表明を行うことは団体の目的を超えている。 | 弁護士には法律制度の改善に努力する役割が課されており、そのための事務を行うことは団体の目的の範囲内である。 |
強制加入団体である弁護士会による政治的意見の表明は、反対意見を持つ会員の思想良心を侵害するから、許されない。 | 反対派の会員が差別的取扱を受けたり、除名されるものではなく、会員が個人の立場で反対することは制約されない。 |
議論の検討
時間的制約はありますが、全体として、もう少しかみ合った議論がなされれば良かったようには思いました。
例えば、ある会員からは「この決議案は自衛隊を違憲とする前提か?」という質問がありましたが、これは意味のある問い掛けに思われました。解釈改憲して自衛隊を合憲としているのに、解釈改憲して集団的自衛権を認めないのはおかしいのではないか、という主張はありうるからです。しかし、実際には、そのような質疑の流れにはなりませんでした。
賛成意見を出す方も、立憲主義を根拠とする場合、それを弁護士がどうして守らなければならないのか、ということについて、更に掘り下げた主張を展開できるように検討しておかなければならないように感じました。
なお、反対意見を述べていた方々は、大会に出て自説を述べていたわけですが、この点は敬意を表すべきものかと思います。圧倒的な少数派であることを覚悟しつつも自分の考えを述べることは、簡単なことではありません。
理論の問題から
まず、弁護士会の目的は何か、という問題があります(なお、道弁連は弁護士会の集合体ですので、以下同様の議論が成り立つと考えられます)。
弁護士法1条1項は弁護士の使命として「基本的人権の擁護」と「社会正義の実現」を掲げ、同条2項は「社会秩序の維持及び法律制度の改善」への努力義務も掲げています。また、弁護士会には建議権(同法42条2項)が認められています。そうすると、「弁護士及び弁護士法人の指導、連絡及び監督に関する事務を行うこと」を弁護士会の目的として定める同法31条1項の解釈として、立法されようとする法案に対する意見を表明することも、その目的に含まれると解されます。
ここは、団体の目的を考える上では、団体及びその構成員の性質を個別具体的に良く検討する必要があるところで、強制加入団体であるという性質のみからは、政治的な意見表明が目的の範囲外であると直ちに導けるわけではないように思われます。
もう一つ、会員の思想良心の自由を侵害しないか、という問題があります。
個々の会員の意見と団体としての弁護士会の意見が食い違うこと自体は、当然に想定されることです。構成員の意思を離れて、団体独自の意思が存在することはあり得るからです。この点に関していえば、構成員のうち少数意見を持つ人の扱いをどうすべきか、という問題はあります。それをまったく無視して執行部が独断で意見を表明するわけにもいかないでしょう。しかし、手続的に瑕疵なく決定されて出された対外的な意見であれば、それに対しては一応敬譲すべきように思われます。
自分の属する単位会、あるいは日弁連が、自分の主義主張と異なる意見を有していることは、刑事司法改革や法曹養成制度の問題などで、私の場合も少なからずあります。これらもどう見ても政治的な問題ですが、強制加入団体だからそのような意見を出すな、という声はあまり聞こえてきません(強制加入団体であることを止めてしまえ、という意見は聞こえることはありますが。)。
しかし、日弁連の言っていることがおかしいことは良くあるので、そのような場合はきちんと反対意見を表明しています。それを妨害されたことも、そのことで差別的な取り扱いを受けたことも、私自身はありません。ですから、総本山め!と不快に思うことはありますが、自分の思想良心が侵されたとは感じていません。
なお、砂川事件の最高裁判決には極めて政治的な問題がありますが(前稿「砂川事件と裁判所」を参照)、司法審査の範囲が弁護士会の意見を述べうる範囲を直ちに画するかどうかは、明らかではないように思います。
価値の問題から
弁護士の仕事は、法を用いて個人の権利あるいは自由を実現することに核心があります。個人の権利や自由を擁護するためには権力を制限する法の存在が求められ、そのために憲法が存在し、それに基づく統治を行わせることが立憲主義です。すなわち、立憲主義は、弁護士という職業の核心を支える根幹となる理念といえます。
個々の弁護士にも思想良心の自由があるとはいえ、この理念を否定する性質の主張をすることは、自己の職業の存立基盤を破壊することになります。この点だけは、この職業に就く以上、共通の価値として捉えなければどうしようもないことのように思うのです。
私は、この道弁連大会の別の議案での討論で「弁護士の共有すべき価値観に重大な断裂が生じている」という意見を述べましたが(前稿「即身仏理論」)、それは、究極的にはこの問題を指摘する趣旨に出たものです。
だからこそ、弁護士は、個人的な主義信条を超えて考えなければならないこともあるでしょうし、立憲主義に基づく主張をするにしても、それが法解釈の理論において、あるいは弁護士の歴史を踏まえた議論において、より説得的なものであるかどうか、絶えず問い直さなければならないということだと思います。