城跡と裁判所(32)さいたま地方裁判所川越支部

皆に埼玉というところはまとまりがないといわれたりすることがありますが、我が愛する祖国埼玉では、あるものによって西と東に大きく分断されます。その「あるもの」とは、荒川のことです。

荒川は、読んで字のごとくで、何度も氾濫して地域に大きな水害をもたらした荒れる川であったこともあり、そのように呼ばれています。荒川下流域に開かれた都市である江戸にとっては、このために治水が極めて重要問題でした。荒川の流れをコントロールすることは、江戸の時代からではあろうと思いますが、東京の都市政策の大きな課題であり続けています。

さて、川越というところは、荒川の西岸では埼玉最大の都市です。その一帯にて育った私は何度も来たことがありますが、城跡を見に来たことはありませんでした。

冒頭の写真が復元された本丸御殿、二枚目の写真が城の全体図です。思った以上に立派な構造を持っている城跡です。

本丸の南側にぽつんと高くなっているところがあります。富士見櫓という名前なので、上まで登れば富士山が見えるということなのでしょう(登ってませんが)。

川越城の跡地には埼玉屈指すなわち世界の名門である埼玉県立川越高等学校があります。私は、埼玉による東京征服の密命を帯びた精鋭として都内の学校に送り込まれてしまったためにここに進学することは叶わなかったのですが、昔、くすのき祭に行ってシンクロ見たりしました。また、名門だけに、学校祭の度に形成される「門」は名物です。

120周年という横断幕が掲げられているように、この学校には江戸時代から学問が盛んだった街の伝統が結実していると思います。

裁判所に来ました。

川越の市街地中心部は昔の町並みが立ち並んでいて、観光客で大変な賑わいになっていますが、ちょうど市街地の北の方の突き当りに武骨な建物が立っているという感じです。

さて、ついでということで、ちょっと川越とは場所が変わっての話になります。

川越藩は、江戸の北側の守りを固めるという地理的要因から重要な場所であり、譜代・親藩の有力大名による統治が続きました。その藩主の一人に松平信綱がいます。島原の乱を幕府側の責任者として鎮圧した人です。

そのような所縁で、島原からは遠く離れた新座の平林寺(松平家の菩提寺)に島原の乱の供養塔が立っています。

島原の乱の戦場となった原城のことについては、昔の記事でも触れたことがありました。

島原の乱から数えると、ずいぶん後の時代のものではあるようです。

なお、この看板の裏は墓地ですが、すぐ裏は電力の鬼と言われた松永安左エ門の墓で、これまた有名な人に所縁があります。

平林寺は、このとおり静かで美しい庭園が残っているお寺です。司法研修所からそう遠くないところですので、和光の無味乾燥ぶりに嫌気がさした修習生は休みの日に行ってみるとよいかもしれません。

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