司法制度改革20年の呪い

司法制度改革審議会の意見書が出されて20年が経過したということで、朝日新聞が社説を掲載しているのを見かけた。

昨今の朝日新聞社も本業が貸しビル業になってしまって、副業の新聞をマトモに書く力は残ってないのか、実にバカバカしい社説である。何も書かない方が余程マシだと言ってもよい。

平成年間の二つの「改革」

平成年間においてなされた「改革」というと行政改革がある。行政改革会議の最終報告では、内閣機能の強化が課題とされた一方、権力の抑制・均衡という点について言及されている。

司法との関係では、「法の支配」の拡充発展を図るための積極的措置を講ずる必要がある。そしてこの「法の支配」こそ、わが国が、規制緩和を推進し、行政の不透明な事前規制を廃して事後監視・救済型社会への転換を図り、国際社会の信頼を得て繁栄を追求していく上でも、欠かすことのできない基盤をなすものである。政府においても、司法の人的及び制度的基盤の整備に向けての本格的検討を早急に開始する必要がある。

この最終報告が平成9年である。ここを端緒として、平成11年の司法制度改革審議会の設置、そして平成13年の同審議会意見書の公表に至り、その後の司法制度改革に伴う各種施策がなされてきた。

もう20年も経ってしまったのだ…見果てぬ夢を追い続けるというには、20年は長い。そろそろ何が起こったのか省みても罰が当たるわけでもないだろう。

20年の歩みと歪んだ「この国のかたち」

司法の人的及び制度的基盤が充実したかというと、ただただ人が増えた20年間であった。その他の感想はない。

内閣機能の強化は果たされたのだろうが、内閣を構成する肝心のヘッドやメンバーがアレだと、内閣主導の旗の下で人事を引っ掻き回したり思い付きで施策をブチ上げるという病理的な現象も生じる。どの政党が政権を取ろうと懸念は同じであるが、このところはほとんど何も歯止めが効かないという心細さを味わい続けている。

結局、行政改革でも司法制度改革でも「この国のかたち」にこだわった割には、バランスを損なってずいぶん歪んだ「かたち」になってしまった。しかも、むしろそれは改革を主導した人たちが元々意図したものとすら思えてくることがある。強い内閣、弱い司法、そして規制緩和と三つ揃えば、好き勝手できる層もいるのである。しかし、そのような在り方の国は、長い目で見れば不公正に対する人々の怒りによりいずれ爆発し、滅亡するだろう。

いや、もう、我が身はどうでもいいからこんな国は一度滅亡の憂き目を見るべきで、その後に次世代が然るべき新時代を拓けばいいというくらいの思いが浮かぶことすらある。

改革と人間観

ところで、行政と司法のいずれの「改革」にも、共通して委員として関与した人が一人だけ存在している。佐藤幸治先生である。

もちろん、改革の企てがうまく行かなかったからといってすべてが特定の個人の責任に属することではない。しかし、「この国のかたち」を大きくいじろうとした割には余りに楽観的過ぎたということを、いずれの改革にも共通して感じる。

すなわち、行政改革でいえば、内閣は強化された権限を適正に行使することは一応の前提となっていただろうし、司法制度改革でいえば、増えた法曹は理念に殉じて仕事をなすことは前提とされていたのだろう。しかし、実際は、常にふさわしい者が内閣を構成するとは限らない。また、法曹の人生もそれぞれであるので、必ずしも期待されたところに行くとは限らないし、期待されたとおり仕事をするとも限らない。そうすると、大きな制度の変化を伴う改革をしようとしたのに、その制度を構成する具体的な人間がいかに行動するか―佐藤幸治の言葉を借りれば「人間実存の多様性と無秩序」ということになるだろうか―について洞察を欠いたまま、一時の情熱と楽観主義に支配されて制度を変えてしまったのではないか。ここに、2つの改革に共通する人間観の脆さというものを想わざるを得ないのである。

なお、特に、司法制度改革に関していえば、制度を活かすものは疑いもなく人だみたいなことを高らかに謳ってたくせに、司法修習生の貸与制にみられるような人を大事にしない制度を構築することになってしまったので、そりゃあ制度が死ぬのは当然だろ!としか思えなかった。

おわりに

冒頭の朝日新聞の社説は、「身近で頼りがいのある司法を築くという改革の原点を忘れず、制度、運用の両面で不断の検証と見直しに取り組む。意見書20年の節目を、その決意を新たにする機会としたい。」と締めくくっている。

じゃあ、実際、検証やら見直しに取り組んでるのかというと、改革に関与した連中は逃げ回っているか、未だに自らの正しさを主張し続けている。

いずれ、そのような者たちは地獄で業火に焼かれて歴史からも断罪されることを祈念している。そして、日々荒んでいく我が国の社会を見て概ねやる気を失っている当職が、あえて残りの半生に何か希望を見出すことがあるとすれば、大きく歪んだ「この国のかたち」を少しでも直すということにあると思っている。

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