さて、ここまで色々と述べてきたところであるが、総本山の活動は実に多彩で、知るほどに驚かされる。その中には、他の団体では成し得ない性質の活動も少なくないが、それは人権擁護を基軸として活動しているということの結果である。
かつては三百代言などとも蔑まれ、会長選挙の度に暴力沙汰を起こしていたような時代もありながらも、先人たちの弛まぬ努力の積み重ねで自治を獲得し、職能団体として存分に機能を発揮するようになったのである。それは大変素晴らしいことだと思っている。
まとまらぬ団体
ところで、総本山の活動は多彩であると申し述べたが、その活動は、必ずしも会員の強い団結の下でなされているというわけでもない。そのようなことが生じる理由について、的確に指摘されているのを見かけた。
これから弁護士の数も増えていき、扱う法的な問題もいっそう多様化していけば、社会の多様な階層から寄せられる弁護士への期待も複雑化し、弁護士自治のあり方も必然的に変わってくるであろう。実際、弁護士会の内部を見ても、構成員の数が増え、それぞれ日常的に扱う事件や依頼者が相互に特化していけば、もはや弁護士会として、国民相互の間に見解の分かれるような政治的問題を単一の声で語ることはできなくなる1。
ここでは、弁護士の増加による弁護士自治への影響ということが触れられている。
実際、総本山がある問題に対して単一の見解を示すことは困難になっていると感じることは多くなった。例えば、そのような性質を有する問題として、死刑廃止に向けた活動がある。
総本山が対外的に発信を行うことは、それが本領であるはずの人権擁護に関わる課題であったとしても、益々困難になっていくのだろうと思っている。
これからの職務基本規程の話をしよう
もう一つ、弁護士自治への影響という点で触れるべき問題は、弁護士倫理による規律である。総本山が規律された職能団体としての機能をいつまでも発揮し続けられるかどうかというと、これも難しい問題である。
いささか暴論ではあるが、弁護士の増加による最大の社会的変化は、弁護士が普通の仕事になったことである。普通の仕事になったというのは、高度の学識や公益性を前提とする存在(=プロフェッション)というのではなしに、市場経済の世界を構成する単なるプレーヤーに過ぎなくなっているという程度の意味である。
実際、普通の仕事と同じだという観点とプロフェッションたるべきという観点は、激しく対立する。例えば、弁護士倫理による規律の問題でいえば、利益相反、顧客紹介の対価、守秘義務、そして違法行為抑止義務等の様々な問題が存在しており、プロフェッション性を重視するほど厳しく規律する方向に傾く。しかし、もはや弁護士は普通の仕事になってしまったので、ムラの掟で規律しようと言い出すこと自体が団体内で激しい軋轢を引き起こすのである。昨今の職務基本規程の改正の動きに対して強烈な反対論が巻き起こったのは、このような構造によるものと見ている。
とはいえ、法律家団体の規律が壊れれば、弁護士なのかそうでないのかの境界も曖昧になり、資格の社会的価値はいつしかゼロに収束していく。おそらく、これからの職務基本規程の話をしようとしている人は、それでは弁護士自治が危機に瀕するという思いがあって規律の強化を主張しているのであろう。その問題意識は分からなくはないが、残念ながら、もはや現在生じている変化は不可逆的にも思われる。
こうして、弁護士のマインドは、なお揺れ動き続けるか引き裂かれ続けるのである。少なくとも、私は、そのような過酷な環境で健全な職業生活を維持できるほどの自信を持ち合わせているというわけではない。
最後に
法律家団体は構成員の増加に反比例してその統制力を減衰させているため、内に向かっては求心力を失い、外に向かっては団結力を欠く状況に陥っている。その一方で、年々拡大していく業務の中身を見ると報われない仕事が増えていくのみで、どうにも芳しくない。そして、そのような環境の改善には内にも外にも大変な困難があるということがこの一年の経験を経て身に染みて分かったので、何かが良くなる兆しがあるとは思えなくなった。
そういうことで、任務が終わって色々と考えていると、余りの先行きの暗さに元気がなくなってしまった。もちろん、目の前の仕事を片付けながら十歩先程度の希望を語って淡々と過ごしておけば良いものを、大きく飛び越えて五十歩先や百歩先のことを考え込んでしまうからいけないのである。
いつどのような事由によるのかまだ分からないが、無事之名馬というとおりで、人に迷惑を掛けずに過ごして静かに職業生活を終えられるようささやかながら努力をしていくほかはない、というのが今の心境である。
(おわり)
棚瀬孝雄『司法制度の深層-専門性と主体性の葛藤』326頁(商事法務、2010年) ↩