11月9日に札幌弁護士会の主催で「災害と国家緊急権」という勉強会が行われましたので、テレビ会議を使って聴講していたところ、それから数日後にフランスでテロが起き、フランス国内ではその対応をめぐりまさに大変な事態となっているところです。
そんな中で、我が国でも憲法に緊急事態条項を書き込んではどうかという反応も見かけるところなんですが、この問題に関しては、冒頭の勉強会の講師を務めた永井幸寿先生が、小林節教授と意見交換会を行った際の議論が参考になります。議論の最後には、小林教授も考え方を改めたようにも見えるのですが…1。
小林節慶大名誉教授と被災地支援に取り組む弁護士が議論を交わしました。 自民党の憲法改正草案「国家緊急権」は導入すべきかーー弁護士が「危険性」を指摘 https://t.co/faKxFHFtQ8pic.twitter.com/fF7XoL0u63
? 弁護士ドットコムニュース (@bengo4topics) 2015, 10月 23
この問題については若手の弁護士の中でも、小口幸人先生が積極的に発言しており、その意見も大変参考になるところです。
災害対応で一番重要なのは「現場に権限を下ろすこと」。日本では法律のレベルで定めて、しっかり機能するように整備されているんです。 →災害の現場で必要なのは「国家緊急権」ではない│小口幸人さんに聞いた(その1)│マガジン9 #maga9 http://t.co/dzN1nhBtw2 ? マガジン9 (@magazine9) 2015, 10月 1
この先生方は、本当にこの問題に強い弁護士だと思います。阪神淡路大震災や東日本大震災の現場に実際に立っていた人たちであるが故に、説得的で力強い議論をしています。
私といえば、この問題に強いなんて自称することは到底できません。それどころか、東日本大震災の時には現場映像を見て衝撃を受け、法律相談支援2に手を挙げられなかったチキン野郎である故に、まったく災害対策の問題3では力になっておらず申し訳ない気持ちになります。
災害対策をダシにするな
そういうことではありますが、強い先生方の考え方をまとめることでこの問題への理解が広まる一助になればと思い、若干思ったことを記しておきます。
いずれの先生方にも共通するのは、国家緊急権に関する議論について「災害対策をダシにするな」という趣旨の指摘です。
日本では既に災害時の対策に関する法律は整備されています。
例えば、災害対策基本法では、事項と局面が限定されますが、内閣は緊急政令を出すことができます。また、それ以外にも、内閣総理大臣には一時的に権力が集中することにはなります。
災害救助法でも、災害の場面では都道府県知事の強制権が定められており、救助業務や物資の使用保管の権限が与えられます。
阪神淡路大震災や東日本大震災では多数の人命が失われましたが、これはむしろ法律の規定があっても、事前の準備が足りなかったことが大きな原因です。「準備していないことはできない」ということに関しては、いずれの先生方も意見が一致します。
すなわち、人命をより多く救えたかどうかということに関していえば、法律の適正な運用に努めるべく、日頃から防災教育を充実させたり、避難計画を策定し適切に訓練を行っておくことの方が、よほど必要なことです。そのような準備も万全でないのに、災害後に立憲主義体制を停止して何かやるというだけでは、場当たり的な対応に終始して余計に混乱をきたすことになるだけでしょう。
このような意味で、国家緊急権の問題を議論するにあたって災害対策をダシにするな、という指摘は災害対策の実情を踏まえた妥当な意見であると受け止めています。
テロ対策をダシにできるか
もっとも、国家緊急権の問題は災害対策の側面から問題提起されるだけではなく、テロに対する備えをどうするのかという側面からの議論が仕掛けられることはあるかもしれません。
戦後の日本で大規模なテロが起こった事例としては、1995年の地下鉄サリン事件があります。
当時、東京都内に通う高校生だった私は4、たまたまこの日は試験休みで都内に行かずに混乱に巻き込まれないで済んだというだけなので、それほど人ごとではないと受け止めています。
ただ、このときも首都の機能は多少止まったように見えましたが、平時の統治機構をもっては対処できない状況ではありませんでした5。
立憲主義体制を停止しなければならないほどの事態がどのようなものかと考えると、かなり極限的な状況になるでしょう6。
国家緊急権の問題は、本来はそのような極限的な状況が生ずる可能性を真っ正面から問うて議論をすべき問題であるはずですが、実際のところ、そんな議論には世論が耐えられないかもしれません。だからこそ、災害対策のような一見分かりやすい切り口からの問題提起が好まれているのでしょう。
そのような場合に政府がなし得る措置を憲法上も厳格に決めておく方法はあり得ますが、厳格過ぎれば役に立たず、役に立たなければ踏み越えられることで立憲主義体制が破壊される危険がありますし、逆に、内閣総理大臣などに包括的な権限を与えることにすると、濫用されて立憲主義体制が破壊される危険も大きくなります7。
後者の例としては、ワイマール憲法下のドイツが破壊的な結末を迎えたことが容易に思い起こされます。
戦前の我が国も、また然りです。
ここで、日本国憲法があえて国家緊急権に関する規定を設けなかったことの意義を考える必要が出て来るのだと思います8。
そうしてみると、災害対策とかテロ対策とか、いくつかの切り口からの問題提起はあり得ますが、いずれにしてもそう簡単に結論を出せるような問題ではないことだけは確実にいえます。
それでも、なお国家緊急権の規定を定めようという議論を行おうとするのであれば、何のためなのか、ということは厳しく問われなければならないでしょう。特に、権力を集中しようとする企てに邪心が隠されてはいないか、ということは良く吟味すべきことです。
小林節『「憲法」改正と改悪』169頁(2012、時事通信出版局)では、「だから、非常事態体制というものは形式的には憲法違反である。憲法違反である以上、それを憲法で認めるためには例外規定として明記しておかなければならない。だから、各国の憲法には非常事態の規定があるのだ。非常事態には総理大臣独裁が認められる必要がある。」としていた。 ↩
東日本大震災の時は、各地で震災に伴う法律問題の相談にあたるため、地元の弁護士会はもちろんのこと、それ以外の弁護士会からも弁護士を派遣して出張法律相談を行っていた。釧路弁護士会からも弁護士が派遣されている。 ↩
災害対策で生ずる法的問題については、司法研修所で同じクラスだった岡本正弁護士が近時まぶしい活躍をしているところであり、東日本大震災の際の取り組みは同弁護士の『災害復興法学』(2014、慶應義塾大学出版会)に詳しい。 ↩
直接の被害を受けた路線こそ使っていなかったが、通学経路にある池袋駅や中目黒駅には実行犯がサリンを持って現れていたとのことで大変な衝撃を受けた。 ↩
阪神淡路大震災や、東日本大震災とそれに伴う原発事故の際も、もちろん被害は甚大ではあったものの、我が国を全体として見れば統治機構が機能していなかったとはいえない。 ↩
例えば、世界が核の炎に包まれ、暴力だけが支配する弱肉強食の時代へと突入した場合などが考えられるかもしれないが、そのような事態ではそもそも政府が機能しているかどうか怪しいように思われる。 ↩
佐藤幸治『日本国憲法論』49頁(2011、成文堂)では、「国家緊急権のパラドックスは、立憲主義を守るために立憲主義を破るということであり、その実定化にはこのようなディレンマがつきまとう。」としている。 ↩
永井幸寿「「災害をダシにした改憲」は間違いである」世界871号73頁(2015)では、「日本国憲法は、濫用の危険性から国家緊急権は憲法に規定しないが、他方で非常事態への対処の必要性から、平常時から厳重な要件で法律を整備するという立場を取っている。」としている。説得的な解釈である。 ↩