平和への切なる祈り

明治時代に一番人口が多かった道府県はどこであったかというと、意外にも、東京ではなく新潟だった時期がありました。

新潟に生まれた曾祖父も、人の流れと共に東京に移っていきました。まだ、上越線の国境のトンネルも完成していないころのことです。そして大正11年生まれの父方の祖母は、戦乱の時期を生きる世代となりました。

昭和20年に入り、生まれたばかりの子を抱えた祖母は、空襲を避けて新潟に疎開しました。戦災著しいこの時期にどうやって新潟まで移動できたか定かではありません。疎開先の松代は屈指の豪雪地、この年は特に大雪の年でした。

困難も多かったのでしょう。戦争に勝つ世の中に、との願いを込めて勝代と名付けられた子は、その年の5月、終戦を待たずに死にました。

小さいころの私は祖母から頼まれ、毎日仏壇に米や水を供えてお祈りしていました。しかし、祖母は過去を語りませんでしたから、私は何に祈っているか分からなかったのです。それが分かったのは、平成21年に祖母が死んでからのことでした。今にして思えば、平和を祈り続ける大切さを祖母は教えてくれたのです。


戦争の時代には、慰問袋というものがありました。戦地の兵隊たちを励ますために、国内に残った女性たちが日用品などの入った袋を送ることが行われていました。

さて、私の父方の祖母が慰問袋を送ったところ、母方の祖父がそれを受け取りました。母方の祖父は律儀な人でしたので、その後も手紙の遣り取りがありました。こうして、父方の家と母方の家の交流が始まり、それは戦後も続きました。そして、たまたま私の父と母が結婚することになり、私が生まれたのです。

つまり、先の大戦がなければ、私はこの世に存在しません。私が存在する限り、戦争の影響は続くのです。私が死ぬまで、それは続きます。

戦争は人間の運命を容易に変えます。しかし、人間がどのように生きるかということは、本来その人が決めるべきことです。そのような人間の尊厳を一瞬にして打ち砕くのが戦争の脅威です。ならば、私は、戦争の影響を受けた存在として、どうしても言わねばならないことがあると思うのです。


様々な仕事のある中、私は、たまたま弁護士という仕事をしています。

戦争に反対するのは人間として自然な心情でしょう。好んで推し進めようとする人がいるなら、抵抗するのもまた自然な反応です。

今の世の中、誰でもそのような声を出せるとは限りません。組織に属している人には、自分の生活があります。良心に従ってものを言えば、組織とぶつかり、地位を失い、路頭に迷うかもしれません。官僚機構も民間企業もNHKも、組織の人は人事やカネで押さえ込めばどうにでもなってしまうのだ、という現実を昨今もまざまざと見せつけられ続けています。

だからこそ、在野にいる私としては、声を上げなければならないことがあると思うのです。

幸いにして、我が国では、時の権力に逆らうことを多少言っただけで弁護士が一網打尽にされる世の中にはまだなっていません。いや、そんな世の中が来ても、自分の良心に従ってものを言わねばならない時もあるでしょう。

少なくとも、戦争に関することだけは何か言わねばならない、それがこの世に私が存在する意義ではないか、ということに思い至りました。


今年の5月、私は、まだ雪の残る松代を訪ね、戦後を見ぬまま逝った幼子の眠る頸城の山々に向かって祈りました。

日本は戦争に負けた後、70年を掛けて、1億2千万を超える多数の国民が平和と繁栄の中に暮らせる世の中を築いたのです。人類の歴史において、貴方の名前のとおり勝ったのですよ、と。

私の存在から導かれる私のなすべき仕事は、明確に見えています。戦争で望まぬ運命を強いられ、尊厳を奪われる人間が一人でも出ないようにすることに尽きます。

そのことを、これからも胸に刻んで生きていこうと思います。

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